7/8書評カフェ@さいたま レポート

7/8てつがくカフェ@さいたま(速報)


さいたま開催第1回目のてつがくカフェは、総勢11名で、予定どおり15:15から、

日進駅近くの、「恩寵」でスタート。

司会者による、哲学カフェの紹介の後、出席者の自己紹介。
皆さん、こういう対話のカフェや、村上春樹に興味を持って、

いらしたことを知りました。



そして、いよいよ書評開始。
村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』』は、阪神・淡路大震災後に書かれたもの。
今回は、その中の、短編『UFOが釧路に降りる』『蜂蜜パイ』を取り上げました。

「地震や様々な出来事にも関わらず、クールな主人公だったり、
その書かれように納得がいかない」
という方々の意見には、春樹ファンから、
「いや、クールな書かれようのほうが、安心する」
「クールにみせかけているだけで、実は熱いのだ」
「クールな人物を認めるべき。多様性が描かれている、

それを認めない読者=私たちがいる」

という熱い議論からスタート。

次の焦点は、短編直接でなく、扉部分の引用文章。
(ドフトエフスキー『悪霊』、ゴダール『気狂いピエロ』)
特に、ゴダールの引用で、

女がヴェトコンで戦死した115人という数を報道するニュースについてコメントしたことが取り上げられ、
今回の大地震の死者16000人という「数」について考えました。


「そのような大地震があったにも関わらず、日本人は淡白」
「いや、淡白にみせかけて、実は影響を受けている。蜂蜜パイの子どものように」
「ことばにはならない=クールだけど、登場人物は熱いものを感じているはず」


そういう意味では

「でも、始まったばかりなのよ」(『UFOが釧路に降りる』)の予言的な言葉は、
何の始まりなのか?という問題提起もありました。
起きたことや、死者一人ひとりへの意味づけの始まり、
人間関係の再生のスタート?


そして、最後に
妻の書き置きの「あなたの中に私に与えるべきものが何ひとつない」(UFO)
熊のとんきちの「どちらかだけが与えられるというのは本当の友だちのあり方ではない」(蜂蜜)
両方に出てくる「与える」の意味についての議論がありました。



この短編は、震災に絡めずに読むことも可能ですが、

今回は、やはり震災に絡めて読むことにしました。

いろいろな方面から、深読みのできる短編であると共に、フックがいろいろあり、
まだまだ、深く考えることができそうでしたが、17時過ぎに終了しました。

 

皆で一緒に読むと、多面的な読みも可能であるとともに、
一人では思いもしなかった事柄を想起したり、
新しいアイディアにめぐり合うことになります。
まさに書評カフェの醍醐味です。


次回はぜひ、哲学カフェに取り組みたいと思っています。
みなさま、ありがとうございました。